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お正月に無心 [和道 Wha-Dho 哲学]

お寺には、伝統的なお正月がある。
生まれてから人生の半分以上を過ごしていれば、お正月が来るたびに思い出す。

山門に宗紋の横断幕を飾り、その両脇に大きな角松。
すべての仏様と神様に鏡餅と清酒がお供えされ、本堂が飾り付けされる。
元旦の朝も、いつもと変わりなく読経で始まる。
一番いい着物を着て、お屠蘇で杯をあげる。
囲炉裏で焼いたお餅のお雑煮、手作りのお節。
年賀状を取りに行く郵便受けまでの道のり。
お昼までは参拝の方が数多く来られ、新年のお説法を聞いて帰られる。
午後は木綿の着物に着替えて、百人一首をしたり出かけたり・・・。
お正月の行事をはじめ、お寺での生活は善い時代だったなと思う。

それが、ある年に終わった。
文化も家族も、守る心がなければ続いていかない。
だから寂しい。

仲良しで、良きライバルでもあった友だちが、
「家族と過ごすお正月です」と言うのを、いつも恨めしい気持ちで聞いていた。
でも、今年はこの「寂しさ」を認められる。
次彼女に会うことがあったら、よかったね、と素直に言えるし、
ようやく「私はあなたとは違う」と言えると思う。

今この瞬間に、存在していないものは見えない、存在しているものは見える。
だけど、過去は存在していないのに見える。
なんでだろう。
それは、自分が見たいから、執着したいから。
自分のエゴの心が(意識しなくても)、見たいものだけ選んで見出しているからだと思う。

寂しさも、やっぱり欲から生まれてくるのか・・・。
ないものにも無心であり、あるものにも無心であれば、
心の平安が保たれるはず[かわいい]


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