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『ギーターの世界』カルマ・ヨーガ [おすすめ本]

ヒンドゥー教や仏教では、身体でする行為だけでなく、
何かを言うこと、何かを思考することも、行為と考えられる。
行為のヨーガ、すなわちカルマ・ヨーガ。

  「自分に定められた仕事を、結果にとらわれることなく遂行し、
  自制と感覚器官を制御し、真実の自己であるアートマンを清めるとき、
  その人のアートマンは輝き出て、万物のアートマンと一体化する。」

ということは、日常生きること自体が、カルマ・ヨーガであるということだ。

上村勝彦さんは、日本人は仏に手をあわせて拝む習慣があるので、
それを日々行い、感謝を忘れないことも大事だと言っている。

私が小さい頃、「修行に出たい」と父に頼んだら
彼は「毎日生きることが修行だから、修行に出る必要がない」と言った。
彼はどういうつもりでそう答えたのか知らないけど、
今彼に直接聞いたところで、覚えてもないだろう。

毎日の行いが ブラフマン=神=仏=万物に宿るスピリット に対してのヨーガだとしたら、
どのひとつをとっても神聖ではないか。
人だけじゃなく、万物の存在そのものが神聖になる。

その心のあり方とは、例えば大切な人を亡くした後・・・。
生前よりその人の存在が確かに近くなったような、
その人の眼が自分の心の中にあって、私の代わりに世界を見ているような、
誰が何を言わずとも、仏(霊)が私の中にいるのだから、自然に自分を律っせるような…
そんな感覚が常にあるようなことだろうかと思う。

お釈迦様が一つの尊い仏であったように、
私たちそれぞれも、尊い一つの使命を持って生まれてきたのだろう。
では、前世、今生、来世と、引き続く時なかで、私は今生、何をするのか?

『ギーター』では、日々の行い(カルマ)を、結果に執着することなく成し遂げなさいと
再三言っている。
行為を放擲(放棄)して山奥で瞑想にふけることは、
いわゆる青年期には大事だとは言っていない。
自分に与えられていることを、成し遂げるのです。

だけど、カルマ・ヨーガだからと言って、毎日お寺の掃除に明け暮れるのは、
もちろん素晴らしい行いに違いはないけれど、
自己のエネルギーを最大限に出しているか、と言われればそうでない気もする。
別に、自分がこれができますとか個性を出す必要もない気がするのだけど、
何かが違う・・・

すると、インドの父マハトマ・ガンディは、
自らの『ギーター』への序文に、このような言葉を残されているそうです。

  「しかし結果を放棄することは結果への無関心を決して意味しない。
   あらゆる行為に関して、
   人はその予期される結果、
   それを達成するための手段、
   そのための能力を知らなければならない。
   このような用意の出来た者が、結果への願望なく、
   しかも目の前の仕事の達成に全く没頭しているなら、
   彼は自らの行為の結果を放棄していると言われる。」

ただ待つだけじゃなく、たゆまぬ努力が大切でしょう。
信仰とともに・・・[三日月]


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