SSブログ

サモアからのメッセージ『パパラギ』 [おすすめ本]

(昨夜、途中でアップしてしまいました。失礼!)

サモアは、ポリネシアと呼ばれるエリアの中に位置する。
ポリネシアの人々は、サバイイ(現在のトンガにある)島から、
北のハワイ、南のニュージーランド、東のイースターにいかだを漕いで渡ったと言われている。
この三角形のエリアは、ポリネシアン・トライアングルと呼ばれている。

ポリネシアと同じく、ミクロネシア、メラネシアという大きく分けて3地域がある。
小さい島々が連なるミクロネシア。ミクロネシア連邦、マーシャル共和国、パラオなどを含む。
黒い国々を意味するメラネシア。フィジー、バヌアツ、ラロトンガなどを含む。
フレンチ・ポリネシアは、主にフランス領で、タヒチやニューカレドニアなど。

私はポリネシアの文化(音楽、ダンス、服装、言語)に興味があり、
大学ではこの地域の文化人類学と言語学を研究した。

今日は絵本パパラギ』のお話。
3300348

まず、サモア概況。
サモアの美しさは、他の太平洋上の島国と同じくらいに、いや、それ以上に美しい。
「最後の楽園」と言われるほどで、「北」の開発が入っていない地域が多く、
(これが反対図になるのもおかしいが)、地球上に残る手つかずの土地がここに残っている。
サモア人は、おおらかで、ゆったりとした性格で、見た目もふくよか。
痩せていることは豊かでないことを意味し、太っていることは「美」を意味する。
(アジア女性よ、サモアで「細いね!」って言われたら、それは同情されているのだよ。)
母系社会で、男性よりも女性が働き、家のなかでも女性が力を持っている。
男性はいつ家を追い出されるかわからないから、常に小さい鞄の中に家(髭剃りやクシ)を入れて持ち歩く。

家の中は広くて、寝転がるスペースがたくさんある。
人々は家で過ごす以外にも、ファレと呼ばれる、柱の上に屋根だけついた場所にいて、
さわやかな風が吹き、暖かな陽のさす日は、そこに横たわり、ごろごろして一日を過ごす。
ほとんどが大家族で、村のニュースで盛り上がる。

『パパラギ』は、1915年に実際にツイアビ酋長が、「白人」を始めて見て、感じて、残したもの。
サモア語で、パパラギ、またはパーランギは、一般的に白人を意味する。
詳しく言うと、サモア人の住む土地に「空の穴から来た人」。
サモアの国に、西洋を運んできた人たち、西洋人のことである。

1997年に訪れたサモアで、既に日本のODA (政府開発援助) は至るところにあった。
当時の私はサモアが「北の価値」で「便利」になることに賛成していた。

『パパラギ』で、ツイアビ酋長は、パパラギが住むところは石のように閉塞した環境だと書いている。
石の壁の家、石の島は都市、石の割れ目の道。そこには、木もなく、青空もなく、風も雲もない。

開発に対しての意見が、ここで明らかに延べられている。1915年のことですよ。  
 
   太陽と、その子どもである私たちは、石の中の暮らしをうらやましがることはやめよう。
   自然の大きな力から離れてしまった、心が迷った人たちだけが、日もなく、光もなく、
   風もない石の割れ目の中で満足しているのだ、
   そんなあやふやな幸せでも、パパラギが欲しければくれてやろう。
   だが、彼らの都合だけで日当たりのいい私たちの海岸に石の箱を立て、
   石の割れ目や、塵とほこりや、うるさい音や、煙と砂を持ち込んで、
   人間の喜びをこわそうとするパパラギの計画は、やめさせなければならない。

貨幣に関して、

   お金は悪魔だ。お金にさわった者はその魔力のとりこになる。
   それをほしがる者は、生きているかぎり力も喜びもお金のために捧げなければならない。
   私たちの島のやりかたは、そうではない。
   ひとりの人間がたくさん持っていて、そのほかの人々はなにもない、というようなことを
   私たちは許さない。そのならわしを大切にしよう。

自然を征服しようとするパパラギに対して、
   
   パパラギはいつも、ますます大きな奇跡を生み出そうとしている。
   だが、自然の力は機械より大きい。
   だれがいつ死ぬかを定め、太陽や、水や、火を動かしている。
   パパラギはだれひとりとして、月の出を、風の向きを、思いのままには決められない。

   えらい紳士たちの小屋は、巨大で、美しく飾られているが、
   大自然がつくったハイビスカスの花やサンゴの森にはかなわない。
   生きている地のあたたかさがあるからだ。
   
   彼らの奇跡は、どこか不完全なのだ。
   そしてどの機械も、うちに秘密の呪いを持っている。  
   機械が力強い手でいろいろの物を作りながら、
   私たちの手作りのものにこめられている愛情を食ってしまうのだ。

急ぐパパラギには、

   目的地に早く着くことが、たいして得になるわけではない。
   得というのは、そういうものではない。
   パパラギは、いつでも早く着くことだけを考えている。 
   早くとどけば、また新しい何かがパパラギを呼ぶ。
   こうしてパパラギは、死ぬまで走り続けているのだ。

働くことについては、

   パパラギの国には私たちの島の椰子の木よりもたくさんの人間がいるが、
   彼らの顔は灰のように暗い。仕事が楽しくないからだ。
   職業が彼らの喜びを食いつぶしてしまったからだ。

   この人たちの心の中には、鎖で繋がれ、逃げたくても逃げられない獣がいる。
   人間は、手だけでもなく、頭だけでもない。
   からだも、心も、全部が一緒に働いて、はじめてに人間は喜びを感じる。

   腹いっぱい食べるために、頭の上に屋根を持つために、
   村の広場で祭りを楽しむために働くがいいと、
   自然の大きな力は私たちに教える。 
      
知識でいっぱいのパパラギには、

   新聞を読めば、私たちの頭は知識でいっぱいになるだろう。しかし、強くなりはしない。 
   頭を砂でいっぱいにするのと同じだ。
   パパラギの頭はこんな紙の知識でいっぱいだ。
   ひとつが出ていかないうちに、すぐ新しいのを取り入れる。
   自分の泥で息が詰まりそうになる泥地のようだ。

   考えること、考えたもの、知識。これがパパラギをとりこにしている。
   パパラギにとって考えることは、道をふさぐ大きな岩みたいなものだ。
   楽しいことを考えても笑わないし、悲しいことを考えても泣かないのだから。

   自然の大きな力は、最後の秘密は見せてくれない。
   だれでも足を使って椰子の木に登るが、椰子の木より高く登ったものはいない。
   自然の大きな力は欲の深い人間がきらいで、
   彼らが知りたがっても、あらゆるものの上におおきなつる草をかぶせてしまったのだ。
   
最後に、ツイアビ酋長は言う、

   私はパパラギに呼びかけよう。
   近づくな。   
   ほかの人より豊かになりたいという欲や、意味のないたくさんのことや、
   やたらのものを作ることや、なんにもならない知識など、
   そいういうガラクタを持って私たちに近づくな。
   私たちは自然の大きな力からたっぷりいただいた美しい喜びで、じゅうぶん満足している。
   自然の大きな力は、私たちが迷わないように、光で照らしてくれる。
   自然の大きな力が照らす光。
   それは愛し合う心、あいさつをいっぱいたくわえた心のことである。


サモア、心豊かな国。

1915年、サモアのツイアビ酋長は、大切な人の心をこうして残した。
しかし西洋の波、欧米化は進む。価値観が交錯して人は故郷を去っていく。
その土地固有の文化を継承する人も減っていく・・・

オリジナルは、『パパラギ』(立風書房)[本]    


3287589
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。