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『リトル・トリー』【Spirit Mind と Body Mind】 [おすすめ本]

フォレスト・カーター著の『リトル・トリー』

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この本を教えてくれたのは、今年の年末をNZで過ごしている親友。
彼女の実家に泊まりに行った時、彼女が「この本えぇねんで~」と薦めてくれた。
今から10年近く前なのかな・・・

今回、もう一度読んでみようと思い読み始めたが、
『太陽の子』くらい、最後の部分で大泣きしてしまった[小雨]

リトル・トリーは、両親を亡くして祖父母に引き取られた5歳の少年。
彼は、チェロキー・インディアンの祖父母とともに、10歳まで山の中で暮らす。
国家が彼らの土地を奪い去る時代、痛みを愛で覆い力強く生きた人々。
この話は作者フォレスト・カーター氏の実話に基づいている。
彼らの間で継承された物語やしきたり、山での暮らしの智恵や、愛について書かれている。
作者は6年の間にわずか4作の大作を書き遺し、54歳で亡くなった。
今作品は1976年に書かれた(ゲド戦記と同じ年だ・・・)

祖母が、リトル・ツリーに語った言葉・・・

 「だれでも二つの心を持ってるんだよ。
  ひとつの心はね、からだの心 (Body Mind) 、
  つまりからだがちゃんといきつづけるようにって、働く心なの。
  からだを守るためには、家とか食べ物とか、いろいろ手にいれなくちゃならいだろう?
  ・・・
  人間はもうひとつの心を持ってるんだ。
  それは霊の心 (Spirit Mind) なの。
  いいかい、リトル・トリー、
  もしもからだを守る心を悪い方に使って、欲深になったり、
  ずるいことを考えたり、人を傷つけたり、相手を利用してもうけようとしたりしたら、
  霊の心はどんどん縮んでいって、ヒッコリーの実よりも小さいくなってしまうんだよ。
 
  からだが死ぬときにはね、からだの心もいっしょに死んでしまう。
  でもね、霊の心だけは生き続けるの。
  そして人間は一度死んでも、またかならず生まれ変わるんだ。
  ところが生きている間、ヒッコリーの実みたいに
  ちっぽけな霊の心しか持ってなかったらどうなると思う?
  生まれ変わっても、やっぱりヒッコリーの実の大きさの霊の心しか持てない。
  だから、なにも深く理解することはできないんだ。
  それで、からだの心がますますのさばるから、
  霊の心はますます縮んじゃって、しまいには豆粒ぐらいになって、
  見えなくなっちゃうかもしれない。
  もうスピリットをなくしちゃったのとおんなじだよね。
  そうなったら、生きてるくせに死んでる人ってことになるの。いくらでも見つかるわ。
  そういう人はね、女の人を見るといやらしいことしか考えない。  
  他人を見ると、なんでもケチをつけたがる。
  木をみると、材木にしたらいくらもうかるかってことしか考えない。  
  きれいなことなんかちっとも頭に浮かばないのさ。
 
  霊の心ってものはね、ちょうど筋肉みたいで、使えば使うほど大きくなっていくんだ。
  どうやって使うかっていうと、ものごとをきちんと理解するのに使うのよ。
  それしかないの。 
  からだの心の言うままになって、欲深になったりしないこと。
  そうすれば、ものごとがよーく理解できるようになる。
  いいかい、リトル・トリー、理解というのは愛と同じものなの。

  霊の心が大きく力強くなってきたら、
  昔自分のからだに宿っていた命も全部見とおせるようになるの。
  そこまで行くとね、からだが死ぬなんてことはもうないのとおんなじになっちゃうの。」

祖母は、祖母の父の話をして、自然にも霊が宿っていることを伝える。
リトル・トリーは
  「初めてわかった。暖炉のたきぎとして、枯れた木しか使わないわけを。
  それは精霊が立ち去ってしまったぬけがらだからだ。
  このとき森の命、山の命を僕は知ったんだ。」


年老いた彼らがからだを去るとき、いつもこう言って静かに去っていく。
  「次に生まれてくるときは、もっとよくなるでしょう・・・」





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