俯瞰する・・・一歩引いて見る力。 [浄化の瞑想・クリーニング・メディテーション]
私も今より若い頃は、色々なことに厳しかったのです。特に自分に対して。10年くらい前から、性格がまるくなってきたと言われるようになったけれど、それは、「他人には厳しくなくなった」から。
でも自分に厳しくすることは、なかなか許せない。「あなたはいいけど、私はダメ。私はがんばらなくちゃ。」
こういう時は、突っ走るエネルギーが、良かれ悪しかれどんな状況もアドバイスも弾いてしまう。そうなると、もう走るしかないのかも。
一所懸命に何かに取り組むことは素晴らしいことですが、信じて取り組むのと、ガムシャラに取り組むというのは違います。
どんな人にも、心の中に「無意識の方程式」がある。頭ではナゼかはわからないのだけど、とにかく自分を無意識にそうさせてしまう何か。本当にしたいか、欲しているのかわからないまま、(どちらかというと、本当はしたくないような気がするのに、)どうしてもある行動が避けられない。
私の場合のこの厳しさは、「厳しくすることは愛情の大切な一面」という経験や知識に基づいた私の固定観念から生まれたもので、それは=(イコール)大切なものに厳しくする=自分が一番大切、という「無意識の方程式」だった。
「無意識の方程式」は、過去の記憶、育った家庭の風習、社会のルール、学校の規則、先生の性格、などで形成されていく。これが強くなれば強くなるほど、個と個の違いが明らかになる。すべての人間は平等に尊い、と言われても、社会集団の中で育ち、そういった方程式が強固になれば、優劣や善悪というものがついてくる。例えば、容姿、性格、成績、キャリア、身につける物、情報、結婚相手・・・なんでもそうでしょう。こういった外部からの情報のみで自分の歩む人生を判断すると、本来欲しているものに気づきにくくなる。
この、ガムシャラがんばりを、客観的に見れるだろうか?
客観的に見ることができたら、落ち着いて状況を把握し、その時時のベストな答えが出せ、より充実した一歩を進むことができるだろう。経験することで、自分の内側から学習することができる。
この「ベスト」というのは、知識やロジックが出す「ベスト」じゃなくて、自分の生にとって「ベストな答え」のこと。本来ここを通って人生を進めていけば、魂の生き方に逆らわないので、満たされる人生となります。現世で呼ばれるところの「幸せな人生」です。
私の場合のお話です。
誰かが多忙で健康を損なっている時、
「身体が No サインを送っている、少しでも休めばいいのに。」と思う。
同じく忙しい自分に、休むという選択肢はない。
「…(A)...だけど、...(B)... しないでおく」
と誰かが言うと、その人の本心と言い訳が、AかBのどちらであるかがわかる。
ところが、自分のこととなるとそういう分析ができない。
自分のことは客観的に見れないものだ。
確かに、他人を見るように自分を見る、というのは難しい・・・
では、一歩引いて、自分を見てはどうだろう。
一歩引いてみる・・・
それは、例えば、不調と感じる時に、「ここが不調だ」と観察してみたり、
苦しい状況を乗り越えられない時、「乗り越えられないでいる自分がいる」とただ見つめること。
・・・できない=辛い=ムリの式を頭でつくる前に、
なぜできないのかを考えてみる。
できるためには、何をするべきなのか。
できるためには、何を手放すべきなのか。
そもそも、それをしたいのか?
できた場合に、何を期待しているのだろう?それは得られるのか?
できない場合、得るものはなんだろう。
いろんな角度から自分を見つめてみる。
自分がしようとしていることを分析してみると、思わぬ方向に答えが見えたりする。
苦しい状況にいる時は、苦しい=嫌いだ=ダメの式は横に置いて、
どうして苦しいのかと考える。
何が自分を苦しくさせているのか。
なぜ、苦しいと感じるのか。
自分は本心では何がしたいのか。
何に対抗して苦しがっているのか。
苦しみを回避するための選択肢はあるのか。
誰かにそれを説明する必要があるのか、
一度そこから離れたほうがいいのか・・・
実際、窮地で一歩ひくというのは簡単でないように思われる。
私も同じく、何度も大嵐のど真ん中、吹き飛ばされてきた。
その時の自分がいるから、今の自分がいるんだから
何も逸れちゃいないんだけどね。
ただ、今、このことに気付いて思うのは、
出来事や行為に、自分の感情を癒着させないこと。
がんばることや、休息すること、厳しくすること、許すことなどに、最初から良し悪しはない。
あるのは経験から生まれた幻想的な思い込みや偏見だけ。
物事にくっつきたがる感情は、意識的に離せる。
私の場合はというと、ちょっとわかってきた。
厳しくする必要が、最初からなかったってことに・・・。
あるがまま
ガムシャラ・スギカエル・・・(タオのプーをご参照!)
自分を見つめる一番の方法は、瞑想すること・・・
でも自分に厳しくすることは、なかなか許せない。「あなたはいいけど、私はダメ。私はがんばらなくちゃ。」
こういう時は、突っ走るエネルギーが、良かれ悪しかれどんな状況もアドバイスも弾いてしまう。そうなると、もう走るしかないのかも。
一所懸命に何かに取り組むことは素晴らしいことですが、信じて取り組むのと、ガムシャラに取り組むというのは違います。
どんな人にも、心の中に「無意識の方程式」がある。頭ではナゼかはわからないのだけど、とにかく自分を無意識にそうさせてしまう何か。本当にしたいか、欲しているのかわからないまま、(どちらかというと、本当はしたくないような気がするのに、)どうしてもある行動が避けられない。
私の場合のこの厳しさは、「厳しくすることは愛情の大切な一面」という経験や知識に基づいた私の固定観念から生まれたもので、それは=(イコール)大切なものに厳しくする=自分が一番大切、という「無意識の方程式」だった。
「無意識の方程式」は、過去の記憶、育った家庭の風習、社会のルール、学校の規則、先生の性格、などで形成されていく。これが強くなれば強くなるほど、個と個の違いが明らかになる。すべての人間は平等に尊い、と言われても、社会集団の中で育ち、そういった方程式が強固になれば、優劣や善悪というものがついてくる。例えば、容姿、性格、成績、キャリア、身につける物、情報、結婚相手・・・なんでもそうでしょう。こういった外部からの情報のみで自分の歩む人生を判断すると、本来欲しているものに気づきにくくなる。
この、ガムシャラがんばりを、客観的に見れるだろうか?
客観的に見ることができたら、落ち着いて状況を把握し、その時時のベストな答えが出せ、より充実した一歩を進むことができるだろう。経験することで、自分の内側から学習することができる。
この「ベスト」というのは、知識やロジックが出す「ベスト」じゃなくて、自分の生にとって「ベストな答え」のこと。本来ここを通って人生を進めていけば、魂の生き方に逆らわないので、満たされる人生となります。現世で呼ばれるところの「幸せな人生」です。
私の場合のお話です。
誰かが多忙で健康を損なっている時、
「身体が No サインを送っている、少しでも休めばいいのに。」と思う。
同じく忙しい自分に、休むという選択肢はない。
「…(A)...だけど、...(B)... しないでおく」
と誰かが言うと、その人の本心と言い訳が、AかBのどちらであるかがわかる。
ところが、自分のこととなるとそういう分析ができない。
自分のことは客観的に見れないものだ。
確かに、他人を見るように自分を見る、というのは難しい・・・
では、一歩引いて、自分を見てはどうだろう。
一歩引いてみる・・・
それは、例えば、不調と感じる時に、「ここが不調だ」と観察してみたり、
苦しい状況を乗り越えられない時、「乗り越えられないでいる自分がいる」とただ見つめること。
・・・できない=辛い=ムリの式を頭でつくる前に、
なぜできないのかを考えてみる。
できるためには、何をするべきなのか。
できるためには、何を手放すべきなのか。
そもそも、それをしたいのか?
できた場合に、何を期待しているのだろう?それは得られるのか?
できない場合、得るものはなんだろう。
いろんな角度から自分を見つめてみる。
自分がしようとしていることを分析してみると、思わぬ方向に答えが見えたりする。
苦しい状況にいる時は、苦しい=嫌いだ=ダメの式は横に置いて、
どうして苦しいのかと考える。
何が自分を苦しくさせているのか。
なぜ、苦しいと感じるのか。
自分は本心では何がしたいのか。
何に対抗して苦しがっているのか。
苦しみを回避するための選択肢はあるのか。
誰かにそれを説明する必要があるのか、
一度そこから離れたほうがいいのか・・・
実際、窮地で一歩ひくというのは簡単でないように思われる。
私も同じく、何度も大嵐のど真ん中、吹き飛ばされてきた。
その時の自分がいるから、今の自分がいるんだから
何も逸れちゃいないんだけどね。
ただ、今、このことに気付いて思うのは、
出来事や行為に、自分の感情を癒着させないこと。
がんばることや、休息すること、厳しくすること、許すことなどに、最初から良し悪しはない。
あるのは経験から生まれた幻想的な思い込みや偏見だけ。
物事にくっつきたがる感情は、意識的に離せる。
私の場合はというと、ちょっとわかってきた。
厳しくする必要が、最初からなかったってことに・・・。
あるがまま
ガムシャラ・スギカエル・・・(タオのプーをご参照!)
自分を見つめる一番の方法は、瞑想すること・・・
私の場合、昔から「0(ゼロ)か100(百)」という感じで、突っ走るか、無関心。
そして無関心なものは少なく、好奇心のままなんでも突っ走ってしまう感じです。今も基本そうです。
こんな自分なので、脱力感を感じる時はすごく落ち込んでしまったり。そんな自分に嫌気がさすことしばしば。
瞑想ですね。。。
やった事がありません。ただ心落ち着かせて目をつむっていればいいのでしょうか?
by aura-aura (2010-06-18 21:05)
0か100。わかります!
私もバリバリ走るタイプですから(今も)。
最近思うんです、息の長い人生を送りたいって。
呼吸も長く穏やかに、人生もそれと同じく長く穏やかに・・・。
さて、瞑想について少し書きますね。
まず静かな場所に座ることからはじまります。
心を穏やかにし、呼吸を整えます。
一日の忙しさ、すべきこと(と思っている事)を、この時は脇に置いて、
空白・無の時間に浸ってみてください。
(お茶でもしながらお話したいですね!)
さて、これは、ロハスクラブに紹介されたMasterのページです。
http://www.lohasclub.org/800/800_18.html
ここには、「心の声=内なる声」を聞くための瞑想として、
クリーニング・メディテーションがあげられています。
・・・まず初めに、過去から現在に至るまでに
塵のように積もった不要なエネルギー
(不要な記憶、印象、問題、心身の不調など)を浄化するために、
クリーニングメディテーションと呼ばれる瞑想から始めます。
この記事は、きっと何かびびっとくるものがあるかもしれません。
ぜひ、見てみてください。
瞑想の方法、ポール・デスーザ氏のパートナーである、
志野デスーザさんの記事にもあります。
こちらにリンクをはっておきますね!
http://www.myspiritual.jp/2009/09/post-508.html
ブログにも書きますね。
auraさんにも、輝く幸せが訪れますように!
痛みは無理しないで、休む時はゆっくり休んでくださいね。
by もののけ (2010-06-20 12:49)