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本を読むなら行間以上…まずは Keep the Faith。 [和道 Wha-Dho 哲学]

私が本を読む理由は、生きる上で必要なことを得るため。
それは、智慧などとも呼ばれるものでしょう。本にはないと知りつつも。

本を読んでいると、カッコ→()がたくさん出てくるけれど、
書き手の意図や主旨って、カッコの中や、注釈の向こうや、行間という見えない隙間や、
…もはやその中に存在してないのかもしれない。

この間の『ザ・シークレット』のブログで、
(深く取りかかるべきことは別にある!!)
って書いた通り、こんだけ本読んどきながら、実は「本を読む」こと自体は大切じゃないと感じてる。

もちろん、素晴らしい本は間違いなくものすごく多い。
一冊の本の中に、ある人物が生涯をかけた実践が収められてたり、
その功績を受け継いで、さらに素晴らしい本が書き残されていく。
(だから偉大な方の自叙伝は読むに値する。)
一人の人間が何回人生を繰り返しても得られないことが本には書かれているが、
その莫大な文献を読むのに、一回分の人生時間では全く足りない。
本を読んでばっかりもいられないし。

というと何だ、本を読んでも智慧は得られないのか?
例え、非常に難解に書かれている本が理解できたとして、それに何の意味があるだろう。
何かの会話でそれを引用できたとしても、それが何か?
借りてきた知識や経験が、私の人生に何をもたらす?
流れていく知識は、心の豊かさをを運んでくるのだろうか?

必要な知識を得たり知るのではなく、全体でわかるにはどうすればいいのだろう。
はたしてそんなに壮大な話って在るのだろうかと、思ったらそれは・・・

それは、信仰だと思う。
信仰心は、個々のとらえ方が違うから語れないと言われるかもしれないが、
(確かに、信仰を感じるために実践する方法は、各宗派や地域や習慣によって違うだろうが)
信仰の底にあるものは一緒だと思う。(キャンベル氏も言われるとおり。)
この宇宙全体(地球や自然や人)を創ったエネルギーというのは絶対の唯一であり、
それを信じて感謝し、感謝して敬い、愛を持ち、その愛を共有することが信仰の根底にあると思う。
(逆にこれを否定するものがあるだろうか)

だから、人間が、勝手な理由で(経済的豊かさや便利さを求めて)自然の命を奪ったり、
大小に関わらず、これは僕の、これは誰のと勝手な境界線を作り、
それを比較し、優劣を作り、それにより利害が生じ、それが転じて争いごとが起こるなどというのは、
この世界を創ったエネルギーに対して失礼極まりない。
それこそ、神への冒瀆、と言われることだ。

小さい時、私は仏様のために一生を尽くして生きていくと激しく信じ込んでいた。
生きる世界と夢の実現の場は、お寺の中にしかないのだと思い込んで、
知らぬうちに自分を犠牲にすることが、仏様を信じることだと思っていた。
それは本当の信仰心ではない。仏様はそんなことを願われない。

仏様もキリストも目指したその一つの真理は、
お寺じゃなくても、教会じゃなくても、どこでも感じることができる。
心さえあれば、信仰を持てる。
信仰は、人から教えられるものではなく、誰かにより奪われるものでもない。
信仰心は、すべての心に在る信仰を、自ら感じようとする心だ。
だから、あれこれ悩み苦しむよりも、自分の心の声(神の声)に耳を傾ける方がいい。
誰かも言いました、*Keep The Faith. 信仰を持ちましょうと。
信仰があれば、愛も慈しみも優しさも強さもついてくる。
それが本来の自分を、しっかりと生きていく方法なのだと思う。

ぐるっと一回りした後で、もう一度。
智慧を得るために本を読むのはいいけれど、行間以上に想いを馳せよう。
どの本にもあって、どの本にもない、その行間以上遥か宇宙に広がる何かこそ、
一番知りたい物語なのだと思う今日この頃です。


*Keep The Faith は10月25日のブログを参照してください[かわいい]

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