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晴れやかに「故郷」を抱いて [カルマ]

まさか自分にこんな日が来るとは思わなかった。「故郷」を持てることは、なんと有り難いことだろうか、と今まさに感じているところです。

きっと、誰にとっても、「故郷」はとても特別なもの。思い出すと、あたたかさや、切なさや、甘酸っぱさや、苦味のあるそんな、幻想のようでリアルな存在。ふと風が吹くとき、まぶしい光が雲間からさすとき、木が同じ香りを放つとき、ちょっと感傷的になり、そんな一瞬立ち止まって、斜め上を眺めて少し微笑むような・・・。故郷は自分のルーツであり、または自分の基盤となるものを教えてくれる。そんな「故郷」が自分にもあったらいいなと、ずっと願っていました。故郷が京都でいいねとよく言われていた私ですが、長い間、京都が故郷であることを受け入れられなかったのです。

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私が生まれ故郷に「帰る」のではなく、「行く」と言い始めたのは、何かに追い出されるように京都を出て、東京に移り住んで数年したころ。京都には育ったお寺は確かにあるけど、そこにもう私の居場所は完全にないという事実が辛すぎて、そんな複雑な感情を10年ほど持ち続けた頃から、京都を憎むようになりました。愛の反対は憎悪と言われますが・・・全くその通り。私の人生の舞台だと思っていたお寺から、聞こえない声で「実はあなたはここに不要なんです」といわれたことを受け入れるのは、それは難しかった。

京都に心を置いたまま東京で暮らし、仕事をしているうちに、自然な言葉で素直に話せなくなっている自分には気づいていました。イントネーション、音、リズム、ジェスチャー、言語そのものが「私自身」であるはず。それまで自然に使えていた言葉が、東京に住んで数年経った頃から、自然と出なくなりました。伝えたいことと、使う言葉があわないのか、はたまた表現したいこと自体がわからなくなってしまったのか・・・。

その頃、「京都を憎む」勢いで、友達が「実家に行く」という言葉にさえもネガティブに反応していました。「実家に行くと、家で毎日ご飯を食べないといけない」、「実家に帰ると逆に仕事が増える」、「故郷に戻るとほっとする」。特に、みんな揃って「実家」を連呼する盆暮正月が大嫌いでした。一緒にお祝いできる家族がいる友達が、心から羨ましかった。

そのうち、私は故郷を持つのはやめようと思い、故郷は心に作ればいいんだと言い始めました。強がって。そう言うわりには、憎むような「故郷」しか知らないから、どこにだって故郷を得ることは無理です。感情の未処理状態が続き、それが自分の一部になってしまいました。

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私とスチュアートが今春に永住を決意して、そして彼が先にアデレードに戻った後、私が京都に行く決意をしたのは、もう一度自分に戻るためだったと思います。間違いありません。私の中の、全細胞が大声で叫んでいました。
「京都に帰れ、じゃなきゃ自分が腐る」
もう、いてもたってもいられないくらいの大きな声で。鍛えられたのでほんとうに我慢強い私です。だからこそ、無意識で慣れすぎた我慢に、細胞が爆発したのかもしれません。

普通に考えれば、東京に留まることでしょう。京都に行ったって、生活を頼るものは何もない。オーストラリア永住を前に、あと数カ月東京に住み続ければ、友達とも穏やかに別れられるし、大使館もあってビザ手配も楽だし、手間や労力や支出も抑えられる上に、仕事だって最後まで続けられる。だけど、私の中で、【便利さ】を取るのか、【魂の声】を取るのか、もう答えはわかっていました。

オーストラリアへ先に旅発ったスチュアートの背中を見ながら、もう本当に、ついに、
自分を受け入れてあげないとと自身に降伏しました。過去に期待した自分になり続けるのではなく、一度素の自分に戻ろう。今のままの私を続けたら、指の間からするすると幸せがすり落ちてしまうかもしれない。私は、自然(自ずと然るべきある状態)にありたい、私の言語(ことば)を取り戻したい、そしてすべて含めて「私」になりたいと感じました。


この記事を書いている今日、京都に戻って2ヶ月以上経ち、私の内に晴れやかで新しい「故郷」が誕生しました。離れていた13年という時間がまるでなかったかのように、在るがままの新生の自分がいます。それに、故郷って、こんなに大切だったんだという気づき。そして、やはり自分を知るのに大いなる手助けをしてくれた故郷。故郷に住んでいなくても、故郷は自分が準備できたときに有り難い形で戻ってきてくれる。やはり、幻想的でリアルな故郷。

本当の意味で「故郷=ふるさ=ホーム」を確かに感じる今、きっとこの先、この「新しい故郷」が私の大いなる糧になっていくように感じます。

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人生では、みんなそれぞれに違うテーマが与えられているけど、みんなそのテーマを紐解くためにずっと偉大なる船に乗って旅をしていくように感じます。長い間、細々とした希望や夢のようなものを追い続け、準備ができた時に何かのきっかけで意識が覚醒しはじめたら、不要なものを手放し、必要なものを新しく得て、そして新たな「自分」に着替えて人生を歩いていけるのかと感じます。

過ぎし日のことや人を悔まず、恨まず、今現実に目の前のことを有り難く受け止め、愛をもって向かおうと改めて決心する、2013年夏 京都です。


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【鹿ケ谷の住蓮山 安楽寺さんにて】


追記:
このブログを書く前に、祖先に感謝する祈りを捧げた直後、祖母の魂が旅立ったとの報せを受けました。私をこの世に運んできてくれた祖母、私の血そして遺伝子に存在する彼女の存在に感謝します。すばらしい魂の旅を続けられますように。

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カルマを燃やす [カルマ]

ヒンズー経や仏教の思想では、カルマと輪廻転生は密接に関係している。
カルマというのは、今生に誕生した日からその人に与えられた宿題のようなもので、自分の知識が認知していなくとも、魂は、過去生からのカルマを引き継いで、今生の今を過ごしている。

カルマは「業」ともいわれ、悪いとか良いと判断するものではないと考えるが、
カルマは燃やせるものである、と言える。炎が物質を燃え尽くすように、カルマは燃え尽くされる。

ニューメキシコ州のワイルド・スピリット・ウルフ・サンクチュアリで行われたリトリートでも、毎日キャビン前で、火の儀式が行われた。火が誕生し、燃え盛り、灰となるまでの流れは、まるで人の一生のサイクルのようだ。

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では、現実社会ではカルマはどう存在しているのか?
例えばもし、あなたの日常に、同じような事象が形を変えて戻り続けているとしたら、そこに「嫌い」とか「嫌な」感情をくっつけないで一度向き合ってみるといいだろう。それがカルマかもしれないから。

「今の自分」が判断する上では、それに向き合うことは「嫌な、しんどい」ことかもしれず、問題が複雑で難題だと思えば思うほど、できればそれから目を背けたいと思うに違いない。
だけど、そこで向き合わないと、カルマは形を変えてあなたのもとに戻り続け、自分自身を一番つらい状況に押しやってしまう結果になるだろう。

あなたにとって、蓋をしてしまいたいような、向き合いたくない課題は何だろう?
特定の人に対するカルマ、
お金に対するカルマ、
権力に対するカルマ、
独立することへのカルマ、
暴力に対するカルマ、
依存することへのカルマ、
決められた日に対するカルマ、
衛生状態に関するカルマ、



数えだしたらきっとキリがない。

嫌な過去の思い出はわざわざ思い出す必要は全くないが、たった今、あなたに与えられているカルマに対して、「きっとそんなに困難な事じゃない」と信じて向き合うのがいいと思う。
言うのは簡単だよと言われるかもしれないけれど、この方法は効く。


例えば私は、お金のカルマが長らくあった。
このカルマには、幼少期の思い出や、自分がさらに招いた新たなトラブルなどと、放置すれば放置するほど、絡み合って自分を混乱させていた。確かに真正面から向き合うのは、心身ともに手応えのあるものだけれど、それに向き合えば、自分が自ら招く感情的な事柄から徐々に、確実に解放される。

と、考えると今生背負ったカルマは、一つ、二つとかぞえるようなものではなく、大きなこなすべき課題が積まれて差し出されているようなものかもしれない。カルマの一部分に向き合う事で、自然とそれにつながるカルマにも向かい始める。


そして、このカルマを燃やし始めてすぐ、次にやってきたのは、物質的な富を得て成功することや、プロフェッショナルに生きる事に対してのカルマ。しかも、これらの存在に気づいたのは、お金に対するカルマを燃やしてから。
「なぜ・どうして」このようなカルマが与えられたかを解き明かすために時間を費やすよりは、さっそくこのカルマを燃やす事に時間を割いた方がいいということにも気づいた。

カルマに対しては逃げないで向き合うことが大切だけれど、私にとって何よりも効果のある方法は、祈りだと思う。
自分の弱い部分が、そこから逃げませんように、このカルマを燃やせますようにと祈ること。

天はいつも私たちの声を聞いてくれている。
カルマを燃やすレールに自分を乗せれば、必ず私という一つの統合された生が、あるべき生を歩み始める。

心の平安、世界の平和は、ひとつのカルマの燃焼からはじまる・・・[かわいい]






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火が焼き尽くすもの [カルマ]

京都、五山の送り火もそうでしょう。

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日常のお寺で絶えない火。
本堂、墓地、仏壇、祠、あらゆるところに蝋燭がある。
修行となれば、宗派にもよるが、火渡り、護摩木を燃やす、さらに厳しい修行もある。
様々なものものが燃やされる。そして何かは昇華していく・・・。

物ごころついた時から、私は裏庭の焼却炉の「番人」だった。
といっても、レンガでできた炉があって、そこで「燃えるゴミ」を焼くだけ。

家庭内や墓地のゴミを集め、焼却炉へ放りいれるのは、
お寺の中の数ある仕事のうちで、トップ3に入る大好きな仕事。
燃やすもので一番多いのは、お供養(お花・お菓子等)。
至近距離でメラメラと燃える様子を見ていると、顔や体が熱くなると同時に心も熱くなる。
残った灰は、シャベルで土を掘り起こしてそこに埋め、自然に還す。


ある日、いつもの仕事場に立つと、
家族との大切なアルバムとネガが、今まさに燃えようとしているのを見た。
  「なんで、こんなところに!!」
私は必死になってアルバムを救った。
ほとんどの写真は焼けて、ネガだけが残った。

だけど、今、ここにいる私は考える。
あの場で炎が焼き尽くそうとしたのは、そうされる意味があったからではないか、と。
焼かなかったら今もある写真と同じように、焼かないから持ち続ける記憶もある。
不要となった記憶を手放す一番簡単な方法は、
(イメージでもいいから)それを火に投げ入れることかもしれない。
Patience (忍耐) が必要だけれど、瞑想もその一つだろう。

ただ、昔の記憶を思い出してもいいけど、
感情を掘り返すことに、意味はないと思うけどね。


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火は、想像以上の力(エネルギー)を持っている、というのを思い出させてくれた記事です。
Funky Master 志野さんの記事をどうぞ[ペン]

『中国で話題の「炎セラピー」とは!?』
[スキー]http://www.myspiritual.jp/2010/04/post-1393.html


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ありがとうございます[るんるん]




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お金のお掃除 [カルマ]

鎌倉に銭洗弁財というのがあるのをご存知ですか?
ここでは、小銭を洗うことができます。
お金についている諸々を取り去り、お金をお金として持ちなおすことができます。
紙幣も、カードも、お金にまつわる思想も邪念も、全部洗えるといいのにね[ひらめき]

銭洗弁財.jpg

さて、大した目的もないのにクレジットカードは複数枚持っていたりする。

たとえば、海外保険がついているクレジットカード
アメリカで無料で医療を受けたことがある私にとり、その恩恵にはとても感謝をしているけれど、
特に今いるのか?と言われれば即不要。
3ヵ月の旅行でしか使えない保険、なのに年会費が高い。
年会費が相殺されるほどの額も使わないし・・・。
しかも、このカード一枚持つ理由は、
「未来の私も、3ヵ月で必ずこの場に戻ってくる人」、と宣言しているようなもの。
それなら、海外行く前に、保険に入った方が安い。ということで、一枚さよなら。

最近のカード退会は、退会月を予約できるようです。
しかも、退会予約の解除はいつでも可能。また、解約後も同じステイタスでカード復活が可能らしい。
よくできたシステムですが、よくできたシステムと、自分に合うシステムかどうかは別の話ですね[ひらめき]

カードだけじゃなく、保険は「私は病気になりますから」と、宣言しているようなもの。
保険を掛け捨て、じゃなくて掛け(たことを)忘れ、ならばいいけど、
ガンが、脳卒中が、なんとかかんとか、など
いつも考えているのは、「うちは代々ガン家系で」と毎度呟いているようなもの。
ネガティブな思考は破棄してよろしいと思います。

ちなみに、私は18歳の、大して預金もない時から、法的に有効な遺言書を持っていた。
海外に一人で行く機会が多く、何かあった場合に財産が必ず特定の人に渡るようにしたい、と思っていたから。
それは、今思うとくだらないこだわりだったと笑えるけど、ほんっとに不要!
もちろん、それはこの旅が新たなステージを迎えた時に、破いて棄てました。

今というこの瞬間を生きようという姿勢の時に、どうして来ぬ未来の銭勘定について考えるんだろ?
さぁ、今日も、生まれたての日最期の日としても最高な、素敵な一日を過ごしましょう[かわいい]




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それぞれのカルマ [カルマ]

今まで考えた事もなかったが、私にはカルマがある。母に、妹に、姉に、父に、義母に、親友にも。そんな大切なことにやっと気づいた。

*・゚・*・゚・*.*・゚・*・゚・*.*・゚・*・゚・*.*・゚・*・゚・*・゚・*.*・゚・*・゚・*.*・゚・*・゚・*・゚・*.

子ども時代は、平和な時が流れ、普通に学校に通い、たくさん遊んだ。父親と結婚したいと本気で望んでいたし、母のように献身的な母親になり、お寺や文化を守っていくのだと信じていた。

両親は15歳の時に離婚した。父親は、ある女性と知り合った時を境に豹変した。ある日、母は自分の人生を歩むと決め、私も母の新しい人生に賛成した。義母は、窓ガラスを平気で割るような人で、父とよく本気でケンカをしていたが、どちらかが死ぬのではないかと本気で思っていた。彼らと5年間一緒に住んだ。

悔しさや悲しみのエネルギーは、すべて英語の勉強にあてた。高校を卒業する頃には自分の進路がわかっていたので、親の離婚は人生を左右する大切な道筋だったと、その頃から感謝している。

お寺を建て直したかった私は寺への執着が強かったが、ある事件を経てすっかりなくなった。その時にようやく気付いた、私の人生はお寺にないのだと。それまで何かにとり憑かれていたのかもしれない。その事件を境に、お寺との関係が切れた。周りをき込んでの闘いがようやく終わった・・・と思っていた私。

残っていたのはトラウマ。
大切な人は必ず去り、私は一人で生きていく、と既に頑丈な自分を作り上げていた。最初は本気でそう思ったのだろうが、気づけば「大切な人が去るサイクル」を自演していた。特に、付き合う男性はいずれ別れることを前提に選んでいたことが多い。そもそも、一人で生きていくと考えている時点で、彼という存在自体を大切に感じていない。最近別れた彼にも、結局去っていくのか!と怒り狂ったものだ。自作のドラマにどっぷりとハマっていた。

でも、それらはすべて過去のこと!過去を振り返り見つめ直すこともない。もう誰を責めることもない。メディテーションをするようになり、自分のトラウマが浄化されていくのを感じている。それを浄化させれば、進むべき人生が見えてくる。今では見るものすること何でもが、純粋に楽しく、純粋に美しい。新しい自分が改めて生まれてきたように思える。これまでフィルターにかかっていたものが、フィルターを通さずに美しいと感じられる。

この世の生きとし生けるものが、それぞれに違った使命を持ちこの世におりてきている。今ある生を受けたのなら、責任を持って生きていかなければね。

きっとこれがカルマなんだね[iモード]

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うちのアジサイ:数年ぶりに白い花をつけました。



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